ベルリン

ドイツの首都「ベルリン」の歴史、交通機関、メディア、観光地、食文化、スポーツなどを紹介しています。

ベルリンの歴史

第二次世界大戦以前

ベルリンと言う名称が歴史的文書で最も古く遡れるのが1244年である。[33]1448年にはブランデンブルク辺境伯ブランデンブルクからベルリンに宮殿を移した。

1618年から1648年にかけての30年戦争ではベルリンは人口の半分を失った。[34]

1871年にプロイセン国王が皇帝となってドイツ帝国が成立し、ベルリンはその首都となった。ビスマルクの外交手腕とオーストリア・ハンガリー帝国の凋落により、ベルリンはヨーロッパにおける国際政治の中軸となる。1873年(明治6年)には日本の岩倉使節団がベルリンを訪問しており、その当時のベルリンの様子が一部銅版画も交えて『米欧回覧実記』に詳しく記されている[35]。1882年(明治15年)には日本国の憲法を起草するための調査に伊藤博文等がやってきている。また、1884年(明治17年)には森?外が留学し、留学中の経験をもとに小説『舞姫』(1890年(明治23年)『国民之友』)を著している。

第一次世界大戦ドイツ帝国は崩壊し、戦後はヴァイマル共和国の首都となった。ベルリンはなおもヨーロッパの芸術・学問の中心として栄えた。その一方でベルリンは政治的に「赤いベルリン」の異名を持つ社会主義共産主義の牙城であり、1928年の選挙では票が社会民主党が33%、ドイツ共産党が25%であるのに対してナチスは2%であり[36] 、ヒトラー政権成立直前の1932年11月の選挙では共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となった[37]。1933年にナチスが政権を奪取し、ベルリンはそのゆがめられた政策によって文化が衰退する。そして第二次世界大戦ではナチス・ドイツの最後の戦場となり徹底的に破壊され(ベルリン市街戦)約125,000人の市民が犠牲となった。[38]

 

◯冷戦時代

第二次世界大戦後、ベルリンの周辺地域はソビエト連邦(ソ連)の占領地域となったが、ベルリンはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって周辺地域とは別に分割占領され、西側3か国占領地域はソ連領地域の中に位置する飛地である西ベルリンとなった。1948年にはソ連が西ベルリン封鎖を行ったが、西側は空輸作戦でこれに対抗した。この作戦は1948年6月24日から翌1949年5月11日まで続けられていた。[39]

1949年に東西ドイツが分裂して独立し、ソ連領地区は東ドイツの首都・東ベルリンとなり、西側3か国占領地域はドイツ民主共和国の中の飛び地のまま、形式的には米・英・仏の共同信託統治領ながら、実質的にはドイツ連邦共和国が主権をもって実効的に統治する西ドイツ領・西ベルリンとなった。西ドイツは首都をボンに置いた。[40]西ドイツ本土と西ベルリンは空路または直通専用道路で往来が可能だったが、形式的には西側3か国の管理下に置かれたため、テーゲル空港など西ベルリンの空港への乗り入れは米・英・仏の航空会社のみが認められ、ルフトハンザの乗り入れは禁止されていた。

ヨシフ・スターリンの死から3か月後の1953年6月、東ベルリンで、直接的にはノルマ引き上げなどを理由とする大規模な反政府デモが起きたが、ドイツ人民警察と在独ソ連軍によって6月17日に鎮圧された(ベルリン暴動)。西ベルリンの主要な道路であるシャルロッテンブルク通りはこの事件を機会に「6月17日通り」と改名された。旧西独はこの日を「ドイツ統一の日」とした(現在では「ドイツ統一の日」は、実際に東西ドイツが統一された10月3日に変更されている)。なお、この通りはちょうど東西ベルリンの境界となったブランデンブルク門を境に名前が変わる。東ベルリン側にあたるのがウンター・デン・リンデン通りである。

東西ドイツの国境が封鎖された後も東西ベルリンの間だけは往来が自由であったため、東ドイツ→東ベルリン→西ベルリン→西ドイツ、と脱出する人が続出した。労働人口の流出を恐れた東ドイツ政府は1961年8月13日に東西ベルリンの境界線を封鎖。後には西側占領地区と東ドイツとの境界線上にベルリンの壁を建設した。この時代のベルリンは、東西冷戦の最前線であった。また超大国・米ソ両国の戦車が睨み合う場面があった。1971年に4者合意により西ベルリンへの車や列車によるアクセスが保証され、アクセスルートの東ドイツからの妨害の可能性が排除された。[41]

1989年11月9日、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界線を開放し、ベルリンの壁は崩壊する。

 

ベルリンの壁崩壊後

1990年10月3日には東西ドイツが統一し、1991年にはベルリンが東西統一ドイツの首都と定められた。以降、東西に分断されていた道路網や地下鉄も含む鉄道網などの交通網を東西で直結する工事が行われ、インフラ整備や再開発が旧東ベルリン地区を中心に進行した。また、再度首都と定められて以降、ボンからの連邦政府諸機関の移転も漸次進められた。首都機能移転は2001年5月2日に完了し、現在では再度、名実ともにドイツの首都となった[11]。ベルリンの壁が撤去され市内中心部には広大な空き地が出現した。その一つであるポツダム広場は再開発され、巨大なビジネス・商業エリアになっている。

 

参照:Wikipediaベルリン

 

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ベルリンでのスポーツ

ベルリンでは高い評価を得ている国際的なスポーツイベントが開かれている。[149] 1936年にはベルリンオリンピックが2006年には2006 FIFAワールドカップの決勝が開催されている。[150] 2009年8月には世界陸上競技選手権大会オリンピアシュタディオンで開かれた。[151] 毎年、ベルリンマラソンやIAAFゴールデンリーグ、国際スタジアム・フェスティバル(英語版)などの陸上競技の大会が行われている。[152]国際バレーボール連盟のツアーは年ごとに行われるビーチバレーのグランドスラムにアレクサンダー広場に近い市中心部を選択している。オープンエアの空間に数万の観客が集まり国際的なサッカー大会であるUEFA欧州選手権などを観戦することはポピュラーになって来ている。多くのファンやビジターは巨大なスクリーンで一緒になって試合を観戦する。Fan Mileと呼ばれるイベントは2年に一度、ブランデンブルク門近くで開催されている。[153]

いくつかの大きなクラブはドイツでの人気のあるスポーツの部門を代表し、ベルリンにも拠点が置かれている。

 

参照:Wikipediaベルリン

ベルリンのレクレーション

ベルリン動物園はベルリンにある動物園では一番古くからある動物園で1844年に開園し現在では世界でももっとも幅広い種類を集めている。[142]ベルリン動物園は人工哺育で育った2006年12月に生まれたクヌートが知られていたが[143] [144] 、2011年に死亡している。ベルリン市内にはベルリン動物園の他に、1955年に設立されたリヒテンベルクにあるベルリン動物公園(英語版) が知られている。

ベルリン植物園(英語版)にはベルリン植物博物館が含まれる。面積は43ヘクタール (110エーカー)あり22,000の異なった種類の植物があり多様である。他には9185年の連邦園芸博覧会の会場となったブリッツ庭園(英語版)や、「世界中の庭園」をモットーにつくられたマルツァーン保養公園 (ドイツ語版)がある。[145]ティーアガルテンはベルリンで最大の公園でミッテにありペーター・ヨセフ・レンネにより整備された。[146] クロイツベルクにあるヴィクトリア公園はベルリン市街の南部に良い景観を提供している。トレプトウ公園(英語版)はシュプレー川河畔のトレプトウにあり、1945年のベルリンの戦いで戦死したソビエト兵を讃えるため整備された。フリードリヒスハインにあるフォルクスパーク(市民公園)(英語版)は1848年に開園し、市内では最も古い公園である。

ベルリンはシュプレー川沿いに多くのビーチやバーがあることで知られ、それと一緒にカウンターのないカフェやレストラン、緑地のスペースがありレクレーションやレジャーの時間を作るのに大きな役割を果たしている。

 

参照:Wikipediaベルリン